明治時代より、むかしの豊島区はどんな様子だったの?
数千年前の豊島の地は、武蔵野台地の一角を占め、幾多の川が流れていたんじゃ。
その流域の台地からは、縄文時代の人々の生活の跡がいくつか発見されているんじゃよ。
その流域の台地からは、縄文時代の人々の生活の跡がいくつか発見されているんじゃよ。
へぇーそうなんだ!
そのあとの時代は、どうなのかな?
では、豊島区、練馬区、北区、板橋区、等の広い地域にまたがり勢力を振るっていた「豊島氏」の話を交えながら、観ていてみようか!
なんだかおもしろそうね!はやく、教えてくれない、きつねさん!
まあ、そんなにせっかなくてもよいから・・・・では、まず、飛鳥時代あたりからいってみようか!
飛鳥時代の701年ごろ「大宝律令」が制定されたのはきみもしているよね!
このころの豊島区のあたりは、古代律令制下の武蔵国豊島郡とよばれていたそうじゃ。
この武蔵国豊島郡のエリアは、広くてな、
現在の台東・荒川・北・板橋・豊島・文京・新宿各区と渋谷・港・千代田各区の一部を含む広大な地域だったんじゃ。
鳥時代の701年ごろ「大宝律令」が制定されたのは
きみもしているよね!
このころの豊島区のあたりは、古代律令制下の武蔵国豊島郡とよばれていたそうじゃ。
この武蔵国豊島郡のエリアは、広くてな、現在の台東・荒川・北・板橋・豊島・文京・新宿各区と渋谷・港・千代田各区の一部を含む広大な地域だったんじゃ。
このころの豊島区のあたりは、古代律令制下の武蔵国豊島郡とよばれていたそうじゃ。
この武蔵国豊島郡のエリアは、広くてな、現在の台東・荒川・北・板橋・豊島・文京・新宿各区と渋谷・港・千代田各区の一部を含む広大な地域だったんじゃ。
そんなに、広かったんだ!そのあとの時代は、どうなのかな?
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9世紀前半の平安時代では、古代豊島郡の郷名として日頭・占方(白方)・荒墓・湯島・広岡・余戸・駅家の7郷があげられるんじゃ。そのなかで、現在の豊島区にあたる地域は、日頭・湯島(7郷の中心をなしていた)だったそうじゃ。
むかしは、へんな地名だんたんだね!
そうそう、この平安時代のあたりから「豊島氏」が歴史に名まえがでてくるんじゃよ!
1156年の「保元の乱」のころじゃ。「保元物語」に記載されているんじゃよ。その名も「豊島四郎」とな!「豊島四郎」は源頼朝に従軍して戦ったんじゃそうだ。
ここで、ちょっと横道にそれるが、今テレビで、「義経」を放送してるよね「義経」にも出で来る平氏、源氏について見直してみようか。 1156年の「保元の乱」のことも出てきたことだしな!
1156年の「保元の乱」のころじゃ。「保元物語」に記載されているんじゃよ。その名も「豊島四郎」とな!「豊島四郎」は源頼朝に従軍して戦ったんじゃそうだ。
ここで、ちょっと横道にそれるが、今テレビで、「義経」を放送してるよね「義経」にも出で来る平氏、源氏について見直してみようか。 1156年の「保元の乱」のことも出てきたことだしな!
なんだか、おもしろそうだね!
ねぇ、ねぇ保元(ほげん)・平治(へいじ)の乱て、どういうのとなの?
みんなも、知っているじゃろうが、平氏と源氏という言葉を!まずは、このことから話をしないとな。
平氏と源氏、聞いたことがあるよ。
平氏だと「平清盛」、源氏だと「源義経」、「源頼朝」てとこかな。
うん、まあ、その3人の名前はみんなしっておるじゃろ。源氏と平氏といえば、「桓武平氏」、「清和源氏」が有名じゃな。
「桓武平氏」は、歴代天皇の中の、50代目が「桓武天皇」で、その子孫から枝わかれした人たちなんだ。「清和源氏」とは、歴代天皇の中の56代目が「清和天皇」でその子孫から枝わかれした人たちなんだ。
前のページで話した「豊島氏」は、「桓武平氏」の流れをくむ系統なんじゃよ。
「桓武平氏」は、歴代天皇の中の、50代目が「桓武天皇」で、その子孫から枝わかれした人たちなんだ。「清和源氏」とは、歴代天皇の中の56代目が「清和天皇」でその子孫から枝わかれした人たちなんだ。
前のページで話した「豊島氏」は、「桓武平氏」の流れをくむ系統なんじゃよ。
へぇー、そうなんだ。
「豊島氏」とは、・・・
「平良文」の子、「忠頼」が「平将門の乱」でてがらをたてて武蔵兼陸奥守となり、「忠頼」の長男、「将常」が武蔵権守となって武蔵国秩父郡に住んで秩父氏を名乗り、その「将常」の子、「武常」が武蔵国豊島郡に住んで、「豊島氏」を名乗ったのが、始まりなんじゃよ。
「平良文」の子、「忠頼」が「平将門の乱」でてがらをたてて武蔵兼陸奥守となり、「忠頼」の長男、「将常」が武蔵権守となって武蔵国秩父郡に住んで秩父氏を名乗り、その「将常」の子、「武常」が武蔵国豊島郡に住んで、「豊島氏」を名乗ったのが、始まりなんじゃよ。
あーなるほど、そういうことなんだ。「秩父氏」から枝わかれして、「千葉氏」、「畠山氏」、「江戸氏」、「葛西氏」、「河越氏」、などが出てきたんだね。
そうじゃよ。
ちなみに、「坂東八平氏」という言葉をきいた事があると思うんじゃが、相模(さがみ)の土肥(どい)氏、相模(さがみ)の三浦氏、下(しも)総の千葉氏武蔵(むさし)の秩父氏、で枝分かれした畠山氏、河越氏、などその時の勢力によって数え方はいろいろなんじゃが、これらがそうで、天下に賞賛されたんじゃよ。
「秩父氏の枝分かれである「豊島氏」もまた、平家の名族で、平安時代末期から、鎌倉時代にかけて、一大勢力を築いたんじゃよ。これから、話す「保元・平治の乱」から徐々に勢力をもばしたんじゃ。
すごかったんだね!「豊島氏」て。
じゃ、そろそろ、「保元・平治の乱」ついて話しをしてみるかの。「保元の乱」は、簡単にいうと、天皇家の勢力争いに、武士(平氏と源氏)が巻き込まれたんじゃ。まして肉親同士の争いなんじゃ。これも、簡単な流れを表にしてみたから、ちょっと観てもらえんかの。→
藤原氏による摂関政治から、院政に移った「白河天皇」に端を発するんじゃよ。簡単にいうと、院政が始まって、白河天皇の孫の「鳥羽天皇」のころ「鳥羽天皇」には3人の奥さんがいたんじゃ(主なところじゃがな)1人目は、「璋子=たまこ」さん、そして、2人目は「得子=とくこ」さん3人目は「泰子=やすこ」さん、とな。
「たまこ」さんには、2人の子供ができたんじゃ、長男が、「崇徳天皇=75代目」、次男が「後白河天皇=77代目」生まれ、「とくこ」さんには、長女の「叡子=えいこ」ちゃんと次女の「暲子=あきこ」ちゃん弟の「近衛天皇=76代目」が生まれたんじゃ。「やすこ」さんには、子供ができなかたんじゃ。まあー「やすこ」さんは
年もとっていたからなあ。この三人の奥さんと子供たちと父親である「鳥羽天皇」による次期天皇になる人を決める権力争いがおこり、そこに鳥羽天皇の側近である、「藤原忠実」(父)、「藤原忠通」(長男)、「藤原頼長」(次男)の3人の権力争いが加わり、実際の武力衝突は、「平清盛」=「源義朝」の組と「平忠正」=「源為義」=「源為朝」の組による肉親同士の戦いとなって起こったのが、「保元の乱」なんじゃ。このとき、「豊島氏」も参加して、「源義朝」に従って戦ったんじゃよ。
結果は、「後白河天皇」が即位し、「平清盛」=「源義朝」の組がかったんじゃ。このことで、だんだん武士の力が。政治にかかわってくるようになるんじゃな。